無錫ドキュメンタリー5(飲み屋の歴史その3)

 

 

  • スナックで働く素朴な女の子たち

前回は日本人向けの飲み屋が無錫大飯店界隈から假日広場に移って来たところあたりを書かせていただいたので、その続きをと行きたいところだが、今回は無錫大飯店界隈の頃のお店で働く女の子たちの暮らし的なことを記述しておきたい。

この頃(2004年頃まで)、スナックで働く女の子たちは、素朴な子たちが多かったように思う。給料も800元くらい。ドリンク代のバックくらいはあったと思うが、チップもないから基本的にはそれで

暮らさないといけない。日本語が上手になっても1200-1500元くらい。だから彼女たちが住居もお店が用意している部屋の2LDKに4〜5人で住む。もちろん空調なんてない。だから夏になると仲良くなったお客さんの部屋に行きたがる。クーラーのある部屋で涼しみたいのだ。1人で行くのではなく、何人かで行くのだ。この頃の無錫で働く日本人は、無錫大飯店、旧ラマダホテル、旧シェラトンホテルなどのホテル住まいが多く(マンションでは無錫で初めて外国人の住居が可能になった惠飛大厦に多く住んでいた)、女の子たちも、仲良くなったお客さんとホテルに行くのは、シャワーを借りに、そして涼しみ行くのが理由であり、普通(?)であった。

 

  • 襲われそうになる素朴な女の子たち

ある日の夜中、スナックで働く女の子から電話があった。助けてほしいと言う。どうした?って聞くと、出張の度にお店に来てくれるお客さんがいて、その人からホテルで一緒に飲もうよと誘われついて言った。部屋に入ったら、お客さんが「先にシャワー浴びなよ」と言うのでシャワーをして出て行ったら、「なんで服着てるんだよ!?」と言われて襲われそうになったと言う。「今までそんなことなかったのに、あの人はどうしてそんなことをするのか!」と彼女は怒っている。もちろん私は彼女に「それはついて行ったお前が悪い」と一蹴。

逆に、「ホテルまでついて来たのに、シャワーを浴びたら帰っちゃうんだよ。なんなん?」という日本人も多くいた。

 

  • もうそんな女の子たちはどこへ?

今はどうだろう?そんな女の子たちはいるのかな?なんて言っていると妄想癖のあるおっさんと言われてしまうのがオチだ。もうそんな女の子たちはいないんだろうな。というか、飲み屋でそれを求めてはいけないし、求めていたあの頃もおかしかったのだろう。

  • そして假日広場で花開く?

当時は無錫大飯店でスナックを開業しようと思うと、10万元もあれば開業できたし、家賃だって1000元くらいだ。だからお客さんがオキニの小姐に店を持たせるということもたくさんあった。でもそういうお店はあまり流行らなかったように思う。何故ならお店を持てた時点で小姐の夢がかなってしまい、その先にはなかなか進めなかったのだと思う。たとえお客さんがお金を出資したといてもお店を持つことを最終目標にしなかった小姐や自分でお金を出して頑張ってきた小姐たちは、その後假日広場で花開き、大儲けすることになる。

 

(つづく)