最初に出来た日式クラブ、スナック
無錫駐在の日本人が飲みに行く場所も時代と共に変化している。無錫大飯店建設、無錫ヤオハン(八佰伴百货)が開業し始めた1990年前後から少しずつ日本人が増えてきた。その頃に湖滨路の運河大酒店の中に無錫で初めて日本人向けのクラブが出来たと言われている。その後も徐々に日本人が増え始め2000年前後からスナック全盛期を迎える。最初に出来たスナックは運河大酒店の裏側にあった「みゆき」という店だと聞いたことがある。風吹ジュン似のママがいた。ちなみにこの店の近くにホモバーがあった(無錫ホモバーの歴史は後日!)。
大阪北新地仕込みのママ
当時人気店だったのが「秋桜」。他店とは一味違った。ママが大阪北新地で働いたことがあり、本場仕込みのスタイルで始めたからだ。当時は接待で使える唯一のスナックだった。当時のスナックは、どの店もセット料金が100元で、レディースドリンクは20元程度、ボトルも300元くらいだったから、誰もが食事後スナックはしご酒をしていたものだ。何故安いのか?それは物価が安かったからだ。家賃も人件費も今とは比べ物にならない。だからどんどんスナックが増えて行く。特に「秋桜」から巣立って行く小姐が多かった。現在も假日広場で活躍する大ママたちは、この頃からのママで、秋桜出身のママも存在する。]
最初で最後のチップ制日式クラブ
いつの間にやら全盛期には、スナックだけで60店舗以上を数えていた。お店が増えるのは、客側からすると嬉しいのだが、これが無錫の特色なのか、まるで他店と差別化ができない、同じような店ばかりであった。価格も同じ、カラオケも同じ、雰囲気も同じ、レベルも同じ、、、、。上海は、あんなにいろんな飲み屋があるのに、なんで無錫はどこも同じなんだ!と誰もが思っていただろう。そこに風穴を開けた男がいた。それは日本人だった。美丽都ホテルの裏側に無錫で初めてチップ制を取り入れたのだ。「あい」という店だった。チップは100元。他の店より100元高いのに大繁盛した。要因はここでは書けない、書くまい、お察しください。しかしチップ制の日式クラブは、この「あい」以降、現れていない(一時期導入した店もあったがすぐに撤退している)。「栄」も新鮮味があった。他の店は、日本語ができる小姐を優先して雇っていたが、「栄」はまず若さと数で勝負し、日本語は入店後に教えていた。「あい」と「栄」がなければ、スナックは廃れていたかもしれない。
(次回へつづく)
(スコープ無錫)