無錫ドキュメンタリー3(飲み屋の歴史その2)

 

  • 滨路、スナックからクラブへ移行の時代

2000年頃から2007年頃までのいわゆる湖滨路(無錫大飯店界隈)の時代は、全盛期は小型スナック店だったが、それがだんだんと大型店舗になり、個室へと様変わりして行った。スナックからクラブへの移行だ。並ぶ小姐を選ぶのもこの頃から始まった。その頃からいる小姐が今も現役であったりするのはご愛嬌。そして日本人街が新区の假日広場に移動していく方針が打ち出され、日本人向け飲み屋も日本料理店も徐々に移動し始めて行く。

 

  • 假日広場時代が始まる

假日広場にいち早く登場したのが響だ。これが大流行りして店も直ぐに2倍に拡大した(ちなみに日本料理店の第一号店は、今はオーナーは変わっているが「松屋」である)。その成功を見ていた湖滨路の店たちは、假日広場進出時に響のやり方を踏襲していく。大型店、個室。だが顧客にとっては悪いことがここで起こってきた。値上げだ。セット料金、ボトル料金、レディースドリンクの値上げの他に、同伴料金、連れ出し料金、指名料金が加算されていく。この頃から日式クラブは気安くいける店ではなくなってきた。今のようにバーもなかったので、その代わりを日本料理店に求めて行くことになり、今もそれは続いているようだ。当時の響はすごかったと思う。店内でマジックショーや变脸ショーをやっていたのだから。

 

  • 伝説の人気ナンバーワン小姐

小さなスナックが主流だった湖滨路時代。客がそこに求めていたのは、飲み代が安かったということもあるが、暇つぶしだったように思う。テレビだって今のように見られたわけではないから日本語にも飢えていた。ところが今のようにいわゆるネットテレビが見られるようになり、更に日本料理店でもテレビが見られるようになり、暇つぶしの形が変わってきた。そう假日広場の大型店に暇つぶしで行くようなことはなくなってきた。では何故行くのか?そうオキニに会いたくていくのだ。それに気付いている大ママたちの間で、人気小姐の争奪戦が始まる。また大ママたちは日本人好みの女の子をよく知っているので、田舎から出て来たばかりの子でも、これはいける!と思えば高待遇で迎える。そしてそんな小姐たちは、あっと言う間に給料が1万元を超え、アウディを乗り始める。だいたい伝説の小姐が辿る道は、移籍を繰り返すことで給料だけで2万元になり、いずれクラブを卒業し、自分の店を持ち始める。それはバーであったり、アパレルであったり、日本料理店である。

 

(次回へつづく)